江卸(えおろし)の長老

 たしか5年ほど前のクリスマスイブだったように思う。知人のカメラマンMと彼の妻とともに、森の案内人に連れられて初冬の江卸山へと分け入った。東川町の市街地から旭岳方面へ車で30分ほど走ると、忠別川の右岸に江卸山という山がある。そこには「長老」と呼ばれるミズナラの大木と、その長老から生まれたであろう、たくさんのミズナラが群生する森がある。

春から秋は鱒を追って川の様子ばかりが気になるのだが、この日は川とは逆の山を見ながら車を走らせた。車を林道の入り口に停めて、「今日はスノーシューがなくても歩けそうだな」と言いながら、森の案内人は春には小さな小川が流れている谷筋から森へと入っていった。風もなく穏やかな天気の中、ぼくたちは案内人の踏み固めた雪の跡を歩いていった。

「キッーキッキッ」と甲高い鳥の鳴き声が聞こえた。森の上を見上げると、遠くに白い扇型の尾っぽが見えた。「オジロワシだね」森の案内人はそう言って、毎年何羽かがシベリアからやってきてこのあたりで越冬することを教えてくれた。

若い頃はアメリカに憧れて、グレイハウンドのバスでアメリカ大陸を横断するのが夢だったなどと、一世代先輩である案内人と雑談をしながら歩いた。その間、Mは黙々と雪と森の写真を撮っていた。30分ほど歩くと、小さなミズナラの幼木が目立つようになってきた。「これもミズナラだね」。そしていつの間にか、ほとんどの木がミズナラに変わっていた。この森は植林ではなく自然に落ちたどんぐりから群生したものだそうだ。

まわりをたくさんのミズナラに囲まれると、動物園で猿山の猿たちに見られる時のように、こちらが見られているような感覚になる。以前に読んだドイツの森林管理官の書いた本の中に、ナラの木は仲間同士で根を通じて互いに電気信号を送りあい、交信しているという話があったのを思い出した。ミズナラの木々が「人間が来たぞ」、「何をしに来たんだ」などと話をしているようで、そして、1本1本の木というよりも森全体が一つの意識をもっているようでもあった。

その群生するミズナラの中心に江卸の長老は立っていた。他のミズナラとは明らかに存在感が違っている。おどろおどろしく曲がりくねった枝が四方八方に伸び、幹には深い皺が刻まれ、あちこちにコブがあり、ゴツゴツとしている。まさにイギリス人の言う「森の王様」である。森の案内人が樹齢を教えてくれたはずのだが、思い出せず…おそらくは300年くらいだったように思う。

江卸の長老は、毎年繰り返されるヒグマの巣篭もりやオジロワシの越冬、さまざまな動物の営み、アイヌの人々の狩猟、たくさんの開拓民たちが移り住んできた様子、第二次世界大戦で強制労働をさせられた中国人たち、ダムに沈む忠別・ノカナンの集落の人々のくらし、水田に代わっていく東川の風景、すべてを見下ろしてきたに違いない。「この木はまだまだ元気だな」と森の案内人は言った。彼は真冬にこの木のそばで一晩泊まったことがあると話してくれた。不思議と安心感を与えてくれるこの木のそばであれば、そんなこともできるかもしれないと思った。

Photo: Yasufumi Manda

春から秋にかけて、僕が釣りをする姿も見られているのであろう。
来年の春に川に立つ時には、江卸の長老の姿を想像しながら、この山の方を見上げようと思う。

文・清水 徹
2022.12.27