風景

5月革命直後の自由な空気の中で、生まれてから7歳まで僕はパリで過ごした。当時住んでいたのは、日本でいう公団住宅のような中流階級向けの建物である。それは古いフランス映画に出てくるようなパリらしい風景ではなく、ジャック・タチのプレイタイムで皮肉を込めて描かれた、近代建築の世界である。絵はがきにあるような、地下鉄のにおい、石畳や建物の古い色と街路樹の緑色、教会、凱旋門といったイメージではなく、よく覚えているのはコンクリートとガラスの近代的な普通の日常風景である。パリからもどってきてはじめて横浜の街を見た時に、雑然とした街への好奇心とともに、幼いながらも、看板や電線がひしめきあらゆるものが散らかっているような、近代化途上の風景の醜さにため息をついた自分を覚えている。どんなに短い滞在でも、一度日本から離れた後に日本にもどると、いつも風景に対する失望感に襲われる。しばらくすると風景を見ないようになる。その風景の中に暮らしているにもかかわらず、自分と風景との隔たりはどんどん大きくなっていったように思う。

東京から新幹線に乗ってどの方向へ向かっても、窓の外の風景はほぼ同じである。グレーがかった色違いの小さな固まりが密集して、その間から無数の細い柱が立ち、無秩序な紐がクモの巣のように張り巡らされている。70年代後半の記憶の中に、東京から離れて行くうちに、田園風景に調和した集落を見たような気がするが、そのイメージはぼやけていてはっきりとは思い出せない。80年代に修学旅行で訪れた京都では、非日常の美しい寺社の印象と、それと対照的な混沌としたアーケード商店街の日常空間を思い出す。それでも現在の京都よりも、当時の京都の方が魅力的であったように思う。90年代、何度も通った東京代官山にあった同潤会アパートはあっけなく壊された。宮本常一は民俗学的なフィールドワークの中で、風景を切り取る時に少しでも多くの事柄が写るように、カメラを後方に引いていった。僕はどんどん近づいていく。なるべく風景が写らないように。そのうちにその混沌とキッチュな風景に美しさを感じる努力をするようになってしまう。

一つ一つの建物は、住い手の一生の労働の犠牲と、設計者の大きな努力と、正確で緻密な職人技術の上に出来上がっている。それと反比例するかのように、つくられる風景は醜くなってしまう。それはまるでお金持ちのゴミ屋敷の住民が、新品のデザインされたものを買ってきて、高く積み上がった製品にさらにそれを積み上げる作業のようである。この風景の中で自分がデザイナーであるということはとても恥ずかしいことのように思う。

どうしてこんな風景になってしまったのか。その理由を簡単に説明することは僕にはできないが、その社会の歴史、風土、社会制度、政治体制、経済状況、個人的趣味、あらゆるものが複合的に絡み合い、風景はつくられるのではないだろうか? 風景には社会そのものが現れている。第2次大戦後の日本には、物理的な焼け野原が広がっていたが、現在は文化的な焼け野原が広がっているようである。

2009年の夏からスウェーデンに住むことになり、この文章は秋に日本に一時帰国した時に書いている。スウェーデンには観光地としての歴史的建物は少なく、これといった見所がない。ガイドブックは北欧3カ国をまとめてやっと1冊ができる。しかし日常の風景はどこを切り取っても美しく、その風景の中で暮らすことができる喜びを感じている。陽の光はあたたかく、風を心地よいと感じ、鳥の鳴き声が聞こえるようになる。その風景は僕らがとうてい到達しえないところにあるような気がする。古い建築、新しい建築、デザインされた建築、古い家具、量産家具、手作りの家具、個々のデザインの優劣を超えて、自然、風景、建築、空間、家具、人が同じひとつの線でつながっているようである。東京ではどこか田舎くさく見えたカール・マルムステンの家具も、スウェーデンの田舎の村に置くと完璧な調和をみせる。

建築のデザインをしていた自分が、風景との隔たりから逃れるために始めた家具づくりであるが、家具をつくることは風景をつくることそのものかもしれない。

文・清水徹
2009.12.5